高取焼の歴史
茶陶文化の勃興と、渡来陶工・八山。
鎌倉時代初めに中国からもたらされた茶は、やがて文化的潮流を生み出し、千利休によって茶の湯へと昇華されていきました。こうした歴史の中で、渡来品の茶道具は「唐物(からもの)」と呼ばれ珍重されます。これに拍車をかけたのが、織田信長の政策「御茶湯御政道」です。信長は茶の湯を政治利用し、茶道具に格付けをして、唐物をその最高位に据えました。名物茶道具には一国に匹敵するほどの価値をつけ、戦功のあった大名にこれを恩賞として与えたのです。権力と切っても切り離せないものとなった茶の湯と茶陶。貴重な茶陶には政治的価値があったことから、武将たちは優れた技術をもつ朝鮮の陶工たちを競うように招聘しました。萩焼(山口)・有田焼(佐賀)・波佐見焼(長崎)・薩摩焼(鹿児島)などは代表なものであり、高取焼もそのひとつ。黒田長政が朝鮮陶匠・八山を連れ帰って、1606年(慶長11年)、鷹取山の麓にある永満寺宅間(福智町)に窯を築かせたのが始まりとされています。
破調の美、織部高取の完成。
1614年(慶長19年)、八山はより良い土を目指して内ケ磯(直方市)へ窯を移します。築いた登窯は、当時としては最大規模の全長46.5m、焼成室14房を重ねたものでした。ここで八山は、朝鮮の作陶技法をもとに、日本人陶工との交流を深めながら、当時人気のあった「織部好み」の作品を次々と生み出していきます。利休七哲といわれる大名茶人・古田織部の美的感性に倣った、内ケ磯時代の茶陶。それは、大きくゆがんだ沓茶碗や水指など、破調の美を追求したものであり、永満寺窯時代とは一線を画すものでした。八山は内ケ磯で、まったく新しい造形と技法を特徴とする「織部高取」を完成させたのです。
後に、八山は朝鮮への帰国を願い出たことから二代藩主・黒田忠之に蟄居を命ぜられ、山田窯(嘉麻市)にて日常雑器を焼きます。この時期までの高取焼を「古高取」といいます。
綺麗さびの系譜、遠州高取。
1630年(寛永七年)、八山は黒田忠之に赦されて白旗窯(飯塚市)を築き、茶器を焼きはじめます。これに際して忠之は、利休や織部に続く茶の湯の第一人者であった大名・小堀遠州のもとへ八山を遣わし、茶陶の指導を仰がせました。遠州好みの「綺麗さび」を感じさせる瀟洒な茶陶はこの時期に完成され、高取焼は遠州七窯のひとつとして全国にその名を知らしめることとなったのです。朝鮮風を脱した独自の茶陶は「遠州高取」といいます。
その後、八山の跡を継ぐ二代目の八蔵は小石原へ移り、鼓窯(東峰村)を構えます。高取焼は繊細な作品を生み出し続け、窯はさらに大鋸谷、福岡城に近い東皿山・西皿山へと分けられていきます。1708年(宝永五年)、四代藩主・黒田綱政は八蔵の子孫を早良郡西新町の山に招き、黒田藩御用窯として陶器をつくらせました。高取焼味楽窯はここにルーツをもつものです。
廃藩置県により御用窯としての任を解かれた後も味楽窯はその技を磨き続け、十三代味楽は1944年(昭和19年)に農商務省より技術保存者に、十四代味楽は1977年(昭和52年)に福岡市無形文化財工芸技術保持者第一号に指定されました。