軌跡、そして未来
名陶工 味楽

十五代 ⻲井味楽

十五代 ⻲井味楽 十五代 ⻲井味楽
手に伝統を覚えこませ、
心で高取の枠を取り払う。
十五代味楽氏が作陶を始めたのは大学卒業後の20代初め。父である十四代と叔父の楽山、数人の弟子に囲まれた中でのスタートだった。当時は茶道具を作ることは許されず、注文品を目まぐるしく作り続けるのみ。無心の作陶によって手が伝統の技を覚えていく、そんな日々だった。一方で「今は自由に幅を広げよ」という父の教えに従って美術展に向けた大作を数々手がけ、連年入選・受賞。
じきに父との親子展、叔父も含めた三人展開催の機会が訪れ、本格的に茶陶に取り組むこととなる。
しかし、当時の味楽氏が感じていたのは「父と叔父の作品は同じに見える」ということだった。
高取焼の本質を守りはするが、陶芸家一人ひとりの作風が表れた茶陶を手掛けることも大切ではないかと考え、釉薬で独創性を出すなどの挑戦を重ねていった。
この頃の氏のオリジナルカラーは、春を思わせる桜色の釉。「挑戦をつづけなければ伝統は息絶える」と感じていたからこそ、伝統の枠を超えたいと願っていた。
やがて父・叔父と工房を分かち、次代の高取を模索する中で「古高取」に辿り着く。
「独創は単なるオリジナルでしかなく、高取焼とは呼べない。古典から学べ」という父の言葉も影響していただろう。ときには今風の作品を確認することもあったが、主に古い焼物から多くを吸収していった。20代らしい情熱の力で高取の枠を超え、幅を広げ続けた経験は、現在の作風に好ましい影響を与えている。
フロンティア精神と伝統。
その融合が生み出すもの。
高取の釉薬を使って新しいスタイルを確立し、自分の方針が見え始めた30代。
斬新な作陶にも挑みながら、高取の伝統技法をしっかりと身につけていく。徹底した薄造りや透かしの技法などに高取本来のありかたを見つめ、改めて「高取とは何か」を振り返ってみたのが、この時期。
20代の頃にトライした新技法と、高取の伝統技法は、ここでようやく融合する。
たとえば、京三島の技法を採り入れながら、釉薬で高取焼らしく仕上げるといった工夫は、そのひとつ。
当時は油滴天目に凝ってみたり、器の裏の目に触れない側面に意匠を凝らしたりと、執念といえるほどのこだわりを器の随所にちりばめていた。
伝統から掘り起こす、次なる可能性。
40代で十五代 味楽を襲名。継承するものの重さを感じ、遊びに満ちた作陶は封印したものの、伝統的装飾による創意工夫は続いていた。襲名当時に多く試みていたのは、七宝透彫に擂座(るいざ)を施すなどの手法だったが、これにより釉薬の流れの思わぬ美を発見することもあり、目の覚めるような気づきは伝統の中から多くもたらされた。
質朴を旨とする茶陶において装飾は蛇足と考えられがちだが、一方で遊び心のない茶陶ほど窮屈なものはない。初めから無駄なく縮こまった作品を目指すのではなく、まず装飾で可能性を広げ、そこからの削ぎ落しで完成度を極めるのが、今も続く十五代のスタイルである。
なお、金華紋釉の完成は襲名以後であり、七宝透彫や印花技法も、この頃の作品に多い。
その後さらに磨き上げられた技により、遠州高取の完成へ、そして集大成の時代へと進みつつある。「現状に満足すれば、下降する」と語る十五代。作為をそぎ落とし、自然のままに作れるようになるのが最高の到達点であると、意欲を燃やしている。

経歴

昭和35年
十四代亀井味楽の長男として生まれる。本名亀井正久。
昭和56年
京都市立嵯峨美術短期大学デザイン学部陶芸学科卒業
平成3年
米国センチュリー大学芸術博士号取得
平成13年
十五代亀井味楽襲名
平成18年
福岡市技能優秀者表彰
平成27年
福岡県技能優秀者表彰
平成28年
米国ボストンにて個展
MIT及びハーバード大学に於いて講演及び実演
現在
日本工芸会正会員、日本陶磁器教会博多支部理事
福岡市立福翔高等学校陶芸非常勤講師
各カルチャーセンター講師

代表作

  • 高取瓢形耳付茶入(金華紋釉)

    高取瓢形耳付茶入(金華紋釉)
    十三代味楽から三代にわたって研究を重ね、完成した金華紋釉。伝統釉薬の黄釉を活かした究極の「綺麗さび」が体現されている。耳の繊細な造りも見どころ。
  • 高取七宝透茶盌(黄釉に黒流し)

    高取七宝透茶盌(黄釉に黒流し)
    磁器に多い繊細な透かし彫りを陶器で叶える、薄造りの高取焼独自の技法。手取りに配慮し、二重構造でありながら一般的な茶盌と並ぶ重量に仕上げられている。
  • 高取黄釉管耳水指(黄釉に黒流し)

    高取黄釉管耳水指(黄釉に黒流し)
    小堀遠州好みの管耳を施した、高取焼の基本型とされる水指。精緻を極める味楽窯らしく管耳の中は貫通している。針のように一筋細く走る釉は十五代だけの特徴。